北海道とサハリンを隔てる宗谷海峡は、宗谷岬とサハリン南端クリリオン岬の間が最も狭く、その距離はわずか43キロメートルしかない。それはJR東日本の首都圏の路線なら東京駅〜八王子駅間とほぼ同じで、ストイックなランナーが2時間台で走破する距離だ。日本人のルーツとなった人たちには、その海峡が凍った時期に歩いて渡ってきた集団もいたそうだ。そんな「すぐそこにある」最果ての国境を越えたいという想いに駆られ、冬の終わりに新千歳空港発の露・サハリン航空でユジノサハリンスクを訪れた。

機材はいたって現代的なボーイング737型機で、搭乗するやいなや、疑いようのない美形のロシア人の客室乗務員が上品な笑顔で迎えてくれた。欧米製ではないエキゾチックな機体や無愛想な機内サービスを想像していたことは、とんでもなく的外れだった。乗客はロシア系と思われる風貌の人たちが大多数で、日本人らしき旅行者はビジネスパーソンを中心に全体の1〜2割。機内の雰囲気はかなりのロシア度が高い。

国際線のフライトではあったが、機内サービスはキャンディー数個とソフトドリンクというシンプルなものだった。その理由は、フライトタイムがスケジュール表記でわずか1時間20分と、日本の短距離国内線と同じ程度だったことだろう。事実、札幌〜ユジノサハリンスクの直線距離は約450キロと、札幌〜仙台間とほぼ同じ。周囲には確かに、冬用の上着を脱がないまま着席している旅客もたくさんいた。

軽くうたた寝している間に、すぐにユジノサハリンスクへの降下が始まった。わずかな時間しか経っていないため、遠くにやって来た印象はまったくなかった。しかし窓の外に目をやると、そこには、流氷に埋め尽くされた海岸線と雪に覆われた白い大地が見えた。ロシアのサハリン島の南端部だった。3月半ばでのこの厳冬の景色を目にして、これから向かう場所が北海道のはるか北方、北緯45度〜50度の土地であることを思い出した。

ユジノサハリンスクのホムトヴォ空港に降り立つと、周囲に広がる光景はもう完全に日本とは別世界だった。東ヨーロッパの小国のようでもあり、建築物にはソ連時代の質実剛健な雰囲気もあった。重い雪雲の下、航空の機体の塗装以外は明るい色合いはなかった。わずか1時間半ほど前にいた新千歳空港の華やかで賑やかな光景とのあまりのギャップに、そこがまるで機内のうたた寝で見た夢の中であるような、どこかの異空間に迷い込んだような気分になった。元来、旅客として乗る飛行機は「どこでもドア」に近いと思っていたが、新千歳〜ユジノサハリンスク線のフライトで、「居眠りしている内にまったくの別世界に行く」ことを、いとも簡単に体験できたのだ。

ターミナルビルの前からタクシーに乗り込んだ。車内のラジオから流れる音楽は現代風ではあるが、普段耳慣れないメロディとロシア語の歌詞だった。どこの国を訪れても最初に乗るタクシーの車内は貴重なローカル情報の収集の場になるものだが、今回に限っては中年のロシア人の男性ドライバーとは一切、会話がなかった。それはドライバーが無愛想なだけではなく、日本語あるいは英語をまったく理解せず、私がロシア語をほとんど話さないためだった。完全に凍りついた道路を高速かつ安全に走ることに集中していたことも、ドライバーが寡黙な理由かもしれなかったが。

街中の雪はまだ深かった。そして弱々しい太陽の光もまた、冬の中高緯度の土地のそれだった。車窓から見る家々には人の暮らしの気配があり不安感はそれほどでもなかったが、「辺境」の旅の寂しさを少なからず感じた。

ユジノサハリンスクの街の中心部のホテルに到着した。ホテル従業員が英語を少し話し Wi-Fi がなんとか使えることに、妙にほっとした。言葉の通じない土地、インターネットへの接続が限られている地域に旅した回数は数え切れないが、そんなことに安堵するのは、状況の急激な変化に心身が追いついていないからかもしれなかった。確かにわずか2時間ほど前までは札幌にいて、この土地は日本の国土からわずか50キロしか離れていない。脳内ではまだこの旅を、テーマパークのアトラクションを体験しているように認識しているのかもしれなかった。

とはいえ、これはリアルの旅である。部屋で荷を解いてさっそく街の散策に出かけることにした。通りや建物は一見、東ヨーロッパ風あるいはロシア風。旧ソ連風とも言えそうなスタイルのものが多かった。街全体的はゆったりとした印象があった。道行く人はざっくりと言って約8割がロシア系の白人。残りが東アジア系の顔をしているように見受けられた。建物や人々の風貌とは別のところで、街の風景にどことなく強い既視感があった。不思議に思っていると、通りを走っているクルマの9割以上が日本車であることに気付いた。なるほど、普段見慣れた車のフォルムやサイズを無意識に認識していたのか。たまたま話を聞いたカーディラーによると、街を走る中古車は北海道などから定期的にフェリーで輸入されており、個人輸入者向けの日本への中古車買い付けツアーもあるという。中古日本車のクオリティを海外でもっとも享受していているのは、物理的な距離の近いサハリンの人たちかもしれなかった。

ユジノサハリンスクは現在、サハリン州の州都だが、日露戦争後の40年間(1905年〜1945年)は「豊原」と呼ばれた日本の都市だった。日本が北緯50度以南のサハリンの半分を「南樺太」として統治していた時代で、「樺太庁」が置かれサハリン開拓の拠点となった。街そのものも札幌中心部の格子状の街区をモデルにして計画的に造られたというから、現在のユジノサハリンスクの原型は約100年前に日本人が作ったことになる。今では統治時代の面影を残す建物や遺構などはごく限られていて、街を歩くだけではほとんどそれを意識しないが、正確に格子状に続く幅広の道路や、街の周辺を流れる川、背後に迫る穏やかな山並みなど、街全体の雰囲気は、言われてみると札幌の景色に似ているようも思えた。

市の中心部はおよそ1.5キロメートル四方の小さなエリアだった。外周にあたる大通りとして、山に面した東側に「カムサモーリスカヤ通り」が、鉄道駅のある西の端に「バグザーリアナ通り」が、空港に続く南側に「パピェードウィ通り」が、そして北側に「サハリーンスカヤ通り」があった。そして四角形の中央を、街路樹のあるメーンストリート「コムニスチーチェスキー通り」が東西に貫いていた。この2.25平方キロメートルの四角い市内中心部に、州都そして商都としての都市機能がほぼすべて収まっているようだ。天気が良ければ、市内のほぼすべての観光名所を徒歩で巡ることも不可能ではないコンパクトさだった。また、10階以上の建物が少ないことで空が広く、街全体に落ち着いた印象があった。

偶然に目にしたスーパーマーケットを覗くと商品は思いのほか豊かに揃っている。さっそく物価をチェックしてみた。旅先ではまずこうして日常生活の金銭感覚を身につけておくと、その後の行動が楽なのだ。ソフトドリンクが45ルーブル=約135円(1ルーブル=約3円)。ビールが50〜100ルーブル=約150円〜300円。大きめのサンドイッチなどが200ルーブル=約600円。どれも概ね日本と同じだった。

空腹を感じたので大通りにのレストランに飛び込んでみた。それなりのグレードのレストランで、有人クロークがあった。メーンダイニングに入る前に、全員コートを預けるシステムで、僅かではあるがお金もかかった。これは雪国ならではシステムなのか、ロシア式のマナーあるいは習慣なのかは判断がつかなかったが、1人で軽く食事をしたいときには、少々面倒である。かと言って、街にはカジュアルなカフェが軒を並べているような賑いがあるわけでもない。このようなレストラン事情は、異国情緒こそ感じられるものの、個人の日本人旅行者には少し敷居が高いかもしれない。

レストランでは新鮮なシーフード・肉・野菜を使ったロシア料理を堪能した。ビーフストロガノフに焼きじゃがいも、「ウハー」と呼ばれる魚のスープなど、いずれも地元産の食材が豊かなのだろう、素朴な味わいの味の中にもしっかりとした食べ応えがあった。全体的に塩味が強めなのが特徴で、食事と共にウォッカやビールが進むのは言うまでもなかった。

日本とは同経度にあるものの、サハリンの標準時は2時間進んでいる。体感では夕刻のはずが、気がつくとローカルタイムはそれなりに遅い時刻になっており、あっという間に初日は終わりとなった。わずか数時間の市内探訪であったが、人々が積極的に話しかけてくることはないものの、こちらから何かを尋ねると言葉が通じないのに極めてフレンドリーだった。満面の笑みとまではいかずとも、敵意のない穏やかな表情で真剣に旅行者をサポートしてくれることが、印象的だった。

翌日は快晴だった。高い青空が目に染みるような冬の天候で、湿度は高くないように感じた。摂氏零度前後の寒さ以外は、いたって快適な気候だった。

鉄道駅に程近いレーニン像の前の広場にやってきた。高さ9メートルの像は威容を放っていた。ソ連時代は間違いなくここが街の中心の一つだったのだろう。国の体制が変わってもここに建ち続けているのは、レーニンが政治家・革命家であるだけでなく思想家として尊敬されているからか。広場の除雪作業が熱心かつ丁寧に行われているすぐ横では、市内に数カ所しかない電光掲示のビルボードが建っていた。日本でLED照明や高細密の液晶ディスプレーに日常的に接している目には、かなりレトロで貧弱に見えたが、それを傍に立つレーニンはどう見ていただろうか。

サハリンの人々は、日本人が想像する以上に日本ブランドや日本人に対して信頼感を持っていて、物理的な距離の近さからも親近感があるのだという。街中の車がほぼすべて日本車であることもその証左の一つだった。

そんな状況をベースに、現在、北海道からサハリンに向けた観光ルートの開発や企画が進んでいるのだそうだ。目玉は日本統治時代の遺構巡りに限らず、サハリンの大自然、ロシア料理やシーフードを堪能し、ロシア風のサウナ風呂「バーニャ」を体験するなど多彩になるということだった。最近では24時間営業の商店で日本同様の品揃えの商品が並び、郊外に大型のショッピングセンターがオープンしたほか、日本食を含むレストランの質が全体的に上がっていること、さらにユジノサハリンスクは夜でも家族連れで歩いてホテルに帰れるほど治安が良いことも、旅行者にとってポイントが高いとのことだった。

一方で、観光利用可能な公共交通機関が少なく、地方では未整備の道路も多いなど、インフラの整備はこれから着手する予定だという。観光リソースがありポテンシャルは高く、観光市場の開発が進められているが、まだまだ課題も多いというのが現実。夏季の稚内からのフェリーによる渡航では72時間内のビザなし渡航が可能であることも含め、サハリン観光がこれからじわりと拡大する下地は整いつつあるだろうか。

そんな観光インフラの一つである鉄道のユジノサハリンスク駅(旧・豊原駅)に向かった。そこからは鉄路が、サハリン南端に近い港町で夏季には稚内からのフェリーが発着するコルサコフ(旧・大泊)、島北端のオハ、さらにはタタール(間宮)海峡を超えてユーラシア大陸につながる鉄道連絡船の発着地ホルムスク(旧・真岡)などに繋がっていた。駅舎は比較的新しいが、線路や鉄道のシステムは日本統治時代に建設されたものがベースになっているそうで老朽化が目立っていた。現在運行されている鉄道は貨物が主流で、観光客が気軽に利用するには本数が少なく、また夏季以外には積雪のため到着地での行動がかなり制限されているとのことだった。緑あふれる夏季に訪れ、ここから鉄路を進み、ぜひ島の北端まで、あるいは鉄道連絡船で大陸に渡ってみたいと思った。

メーンストリートの「コムニスチーチェスキー通り」を東に移動し、「郷土博物館」に向かった。そこはユジノサハリンスクの中でも最も「日本統治時代」を感じられる建物。日本の城郭を模した屋根のラインに特徴のある重厚な日本建築は、当時「樺太庁博物館」だった建物。外観は「日本らしい」設計ではあるのだが、日本国内ではすでに見ることのない独特のスタイルで、既視感と共にタイムスリップ感や希少感を感じた。正門の扉には「菊の御紋(菊花紋章)」が彫られているほか、内部の構造や木を多用したインテリアからも、当時の最高レベルの日本建築のデザインと技術が投入されたものであることが分かった。

博物館は、サハリンの古代から現在までの歴史を、史料や写真・簡易的なマルチメディアコンテツの展示を通して学ぶことができる内容で、ソ連時代には封印されていたという日本統治時代の品々もケースの中に並んでいた。当時の北緯50度ラインに設置された日本とロシアの「国境」の標石をはじめ、「豊原」の街や開拓者の暮らしを伝える写真や実際の日用品などの数々にリアリティがあった。まるで時を止めているかのような風合いの展示物を見つめ、先人たちの開拓地での活躍と苦労を偲ぶと同時に、その後の苛烈な運命を慮った。ソ連崩壊後のサハリン州がこの展示を公開することを決め、そのスペースがかなり広く取られていることからは、日本とサハリンの見えないつながり、そしてサハリン人の日本人に対する独自の感情の一部が伝わってくるようにも感じた。

郷土博物館の入館料は70ルーブル(約210円)。カメラ撮影には別途100ルーブル(約300円)、ビデオ撮影には150ルーブル(約450円)が必要だった。館内で撮影していると、時折、学芸員兼警備員と思われる中年の女性が、「撮影は有料だよ。料金、払ってる?」と厳しいトーンのロシア語で聞いてきた。「入り口で払ったよ」とレシートを見せると、「あら、なら大丈夫だよ」と笑顔になった。このやりとりが各展示コーナーで延々と繰り返されるところがなんとも面倒でもあり、どこか楽しくもあった。ロシア人はこういう手続きみたいなものが、好きなのだろうか。

ユジノサハリンスク市内にはこの郷土博物館のほか、旧拓殖銀行豊原支店の建物がサハリン州美術館として、旧豊原市立病院が軍病院として、旧豊原市公園がガガーリン公園として、それぞれほぼ当時のまま現在も使用されていた。ホムトヴォ空港もまた、そのルーツは日本統治時代の「大沢飛行場」に遡るそうだが、その痕跡はまったくなかった。

一般的に日本で「ロシア」と聞いて、無条件にポジティブなイメージだけを持つ人は多くないだろう。ロシアが生んだ偉大な芸術や文化、そして大自然などが賞賛に値するのは言わずもがなであるが、日露戦争から第二次世界大戦末期、そして戦後の日本とソ連およびロシアの複雑な関係や、長く続くロシア国内の政治・経済の腐敗や混乱などから、どうにも正面切って「友人」だと言い切れない、というのが多くの人の心情ではないだろうか。しかし現代の日本に暮らす人々が、ロシアの人々のことを詳しく知る機会がほぼないことも、事実だろう。今回、稚内からサハリン島までがわずか42キロ、ジェット機で千歳から1時間ちょっとの距離であることを体感し、ロシアが日本の「隣国」であることを再認識した。

国レベルでは北方領土問題など、日本とロシアの間で解決すべき具体的な問題は多くある。そしてそのプロセスがこの先、進展と後退を繰り返す可能性が高い。それでも、ロシアが日本の「隣国」で、サハリンの人たちが「隣人」である事実は変わらない。一旅人として、一つの「極東」を共有する隣人を、これからも無視することはできないのではないか、そう思った。

サハリン航空での新千歳への帰路は、搭乗手続きも出国手続きもスムーズで、定刻の出発だった。ターミナルビルの国際線エリアに到着した際は、その狭さから多少の混乱や待ち時間は覚悟していただけに、手続きの効率の良さに少し拍子抜けした。そして今日もまた、多くのロシア人が北海道あるいはその先の日本各地を目指して出発していた。ビジネスマンに加えて、子どもを連れた家族連れやカップルもたくさんいた。皆、表情が明るく楽しそうだった。

機内の窓際のシートに座り、ユジノサハリンスクでの数日間を反芻しつつ、窓から広大な流氷原を見下ろしていると、機体はすぐに雪雲の中に入った。そしてはっと気づくと、うかつにもまた座席でうたた寝をしてしまったようで、機体はもう新千歳への降下を始めていた。

程なく機体が新千歳空港の滑走路に着陸し、ターミナルビルに戻ると、日本の携帯電話が普通に通じて、サハリンで受信しきれなかったメールが次々と着信してきた。周囲はLEDの光に溢れ、コンビニには信じられないくらい色鮮やかな商品が並んでいた。それは、わずか1時間少し前まで自分が日本語も英語も通じないロシアの街にいたと信じられないような光景だった。やはりサハリン航空は、「どこでもドア」なのではないか、そう思って旅を終えた。 

*このコンテンツは、2013年6月に季刊 航空旅行(イカロス出版)に掲載された連載紀行 World Explorer の本文の再編集版です。記述された情報はすべて、2013年の旅行時および執筆時のものです。