シッキムはインド北東端に位置する、ネパール、ブータン、そして中国のチベット自治区に囲まれた地域。そのほぼ全域が、インドで人口で最小、面積で2番目に小さな州になっている。地図を見ると、インド領の一部が、チベット族系の人々が暮らすシッキム・ヒマラヤ山系に突き刺さっているようでもある。現在のシッキム州はかつて「シッキム王国」と呼ばれる独立国だったが、南アジアの地政の動きに翻弄され、1975年に消滅した。外国人がシッキムを旅をするのに今も「入境証」が必要な理由は、そんな複雑な歴史に遡るようだ。
今回は2017年のシッキムへの旅の記録である。移動は、インド国内線でデリーから西ベンガル州のバグドグラ空港に飛び、そこから乗り合いジープを乗り継いで急峻な山道を進んだ。最終目的地はシッキム州の州都、かつてのシッキム王国の首都、ガントクである。

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デリーからバグドグラへ

デリーのインディラガンジー国際空港から、エアインディアの国内線で東に向かった。機窓から望むインド北部の大地が果てしなく荒涼としていたことが印象的で、ヒマラヤの南麓、というのはこのように何もない土地だったのか、と感じ入った。離陸から2時間ほどで降下が始まり、機体はバグドグラ空港に静かに着陸した。窓の先に派手な迷彩色に塗られた管制塔が建つ建物が見えた。まるで軍政を皮肉るように加工されたパロディ写真のようだった。バグドグラ空港は軍民共用で、そういえばランプへの降機時には、制服を着た軍人がタラップから降りてくる旅客に向け「空港内での写真撮影は禁止だ」と声を荒げていた。ここにいったいどんな機密があるというのか……。撮影規制以外は、バグドグラは内陸国の古ぼけた小さな地方空港といった風情で、そこからは少なからぬ寂しさと、それが醸す旅情だけを感じたのだが。

到着ホールの先に、灼熱の日差しの下でひしめき合う人々のうんざりするような雑踏、つまり典型的なインドの光景を覚悟していたが、実際にはそれほどでもなかった。さまざまな目的で群れ寄ってくる人々はいたのだが、誰もが概ね穏やかで秩序だった雰囲気があったのだ。案内をかって出た若者もインドアクセントが比較的弱いスマートな英語を話し、極めてスムーズにコミュニケーションが取れたことも意外だった。バグドグラを灼熱のインド、と呼ぶには少し違和感を感じるほどだ。インドは広大で多様な人々が住んでいるが、人々の行動や話し言葉の傾向にも大きな地域性があるのだろう。

タクシーに乗り込んでスラムと思われるエリアや田園地帯を15分ほど走り抜けると、シリグリの街の中心部に到着した。シリグリは西ベンガル地方全域と、北方のシッキム州などへの陸路のゲートウェイである。

シリグリでシッキム州の「入境証」を取得

シリグリで最初にすべきことは旅の最終目的地であるシッキム州の「入境証」の取得だった。メインストリートの人混みをかき分け「シッキム州政府事務所」を探しあて、中に入ると、そこには通りの喧騒や熱気とは異なる静かな空間が広がっていた。空調の効いた部屋には5人の役人がいて、こちらが「入境証を……」と言う前に、最初に目が合った男性スタッフが窓口の女性担当者を無言で指差した。女性に手渡された雑なコピーの申請書に所定の事項を記入しパスポートと共に提出すると、およそ10分ほどでレターサイズ(ほぼA4サイズ)の入境証が出来上がった。この入境証を携帯していないと、外国人はシッキム州境にあるチェックポイントを通過できず、州内でランダムに提示が求められる際に問題になるらしいが、発行の手順はずいぶんと形式的に思えた。手数料がないのは、このれが外国人の移動の管理だけがその目的だからだろうか。あるいは形骸化した儀式のような手続きだからだろうか。

この事務所でどの程度の緊張感を持つべきか分からぬまま、恐る恐るシッキム行のジープの乗車方法を尋ねてみた。すると女性は身を乗り出すようにしてこちらに笑顔を近づけ、乗り場の位置や運賃の支払い方法などを丁寧に教えてくれるではないか。さらにはさっきまでネットの動画サイトを見ていた最初の男性は、私が手にしているミラーレスカメラに目が釘付けで、女性が説明を終えるやいなや、カメラとレンズのブランドと性能購入場所、価格などを事細かに聞いてきた。州政府の役人といっても、皆、かなり暇そうで、フレンドリーなのだった。

ジープ乗り場は女性の案内どおり、事務所のすぐ近くにあった。ここから最初の目的地である西ベンガル州の山間のダージリンへ、そしてその先のシッキム州へは細い山道を延々と進むため、車両はバスではなく乗り合いジープなのである。出発時間は「乗客が集まって定員になったら」で、事前の予約などはできない。ボンネットに「次のダージリン行き、このクルマ」と手書きのサインを乗せた車両を見つけると、車内にはすでにドライバーと数人の乗客とが出発を待っていた。数百円の運賃をドライバーに前払いし、車両に乗り込んだ。定員は前列にドライバー含め3人、後列に4人、そして最後尾の貨物スペースに展開した簡易シートにも4人以上。「以上」というのは乗れるだけ、と言う意味である。子供や小柄な人が含まれると乗員は増えるのだ。このような自由なスタイルの交通サービスは、旧ソ連の構成国や中南米やアフリカなど、公共交通が整備されていない地域では今も一般的で、世界の庶民の移動手段の定番であるとも言える。狭いとか、知らない人との密着は嫌だとか、前列に座りたいとか、定時がないのは困るなどと御託を並べられる状況ではないのは、シリグリでも同じだった。

険しい山道を進むダージリンへ

11人の乗客と荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んで走り出したジープが目指すダージリンは、紅茶の産地として世界的に知られる街だ。シリグリを出発して登り坂になったと思うと、すぐに両側に山が迫ってきた。周囲には原生と思われる樹木が色濃く生い茂り、道はどんどん細くなっていった。満員のジープは、モトクロスバイクがトレッキング向けの登山道を無理やり駆け上がるようなワイルドさで爆走した。一本道は山肌をうねるように、尾根をはうように続き、さらなる高みに向かっていた。手元の高度計をみると標高は2200メートル。谷側の路肩に柵などはなく、ときおり崖崩れの修復工事が行われている。修復箇所の土砂が比較的新しいことから、路肩の崩落がごく最近だったことが分かった。

道路そのものがなんとも心もとないことに加え、追い越しや対向車とのすれ違いが頻繁にあり、フロントガラス越しの眺望はまるでカーレースのゲーム画面のようだ。が、しかし、ここではリアルで命がけのドライブが進行中である。ドライバーも同乗者も皆、なにかに没頭しているかのように終始無言だ。極度の緊張感と恐怖感からだろう。まったく車酔いしないのが救いではあった。

急峻な山肌にへばりつくような道に沿って、ときおり小さな街並みが現れる。平地なら街道沿いの集落、といったところだろうか。耕作地さえほとんどないようなこんな高地の斜面にも、このように多くの人が暮らしていることが驚きだった。学校が隣の山の斜面の集落にあるのだろうか。まるでけものみちのような細い山道の路肩を延々と歩いている子供たちがたくさんいた。ふざけながら、遊びながら、道草を食いながら仲間と楽しそうに歩く子どもたちの姿は、世界中どこでも同じだ。このダージリンでもそうだった。

ジープの窓から外を見ていると、霧が濃くなってきた。視界は事実上ゼロメートルだろうか。ここまでの道路で目にした崩落した路肩やその下に続く千尋の谷などを頭によぎらせつつ、スピードを全くゆるめず突き進む運転席のドライバーに感心した。彼の目には濃霧の先の道路が見えているか、あるいはこの山道のあらゆる状態を隅々まで記憶しているに違いなかった。4時間ほどのローラーコースターのようなドライブが終わりに近づく頃には、私はまるで魂が抜けたように放心していたが、ずっとくいしばっていたた歯茎が少し痛みだしたおかげで、正気に戻ることができた。

ダージンリの街で

ダージリンの町に到着したのは午後6時すぎで、すでに日は落ちていた。これまで通過した街に比べると規模が大きく、活気があった。街自体が急な山肌にへばりつくように広がっているのは、ここまでに見てきた街や集落と同じだ。この山岳地帯には平地などほぼ存在しないということが、直感的に理解できる光景である。街の中心部には、ようやくジープが通れる幅の道が左右に大きく蛇行しながら山の上に向かって続いていた。そしてその道路をを縦に串刺しにするように、人がやっとすれ違えらるほどの狭い階段が網の目にように広がっていた。この街を上下に移動する時は、車の場合は大きく蛇行しながら長い距離を進むが、急な階段を使えば素早く昇降できる構造だった。階段の場合、必要なのは脚力だけなのだが、老若何女、たくさんの人たちが大きな荷物をもって自力で移動していた。山の暮らしでは、急な坂道や階段の上り下りというのは、日々の生活の一部なのだろうと思った。

街は先ほどからの霧雨に濡れているが、夕刻の活気に満ちていた。日暮れとともに閉店する店舗もあるものの、通りには夕食の食材を求めている人たちや、私と同じようにジープで遠方から到着した人たちが忙しそうに歩いていた。ほぼ全員、南アジア人やチベット人の風貌だった。

明日のシッキム入境に備え、今夜はこのダージリンに宿泊する予定をしていた。たまたま通りかかった工具店で、予約しておいたホテルの場所を尋ねてみると、「その先の狭い階段を登ると、その先が二手に分かれているので、右へ。登りきったところの道がチベットストリートだから、そこを今度は左に登る。すると正面右手に大きな建物があるから、それがホテル。すぐ分かるよ」との返事。インドではこのような即答の道案内はそのまま信じてはいけない、というのは旅人の間では半ば常識にはなっている。が、しかし、言われた通りに進んでいくと、果たしてホテルはちゃんとそこにあった。なんと説明に一語一句間違いはなかったのだった。この地域には親切で几帳面な性格の人が多いのだろうか、と嬉しくなった。

ホテルそのものが急峻な斜面に建っていることから、エントランスは通りに面しているものの、フロントデスクはエントランスからいきなり3階分くらいの階段を延々登った上階に、客室はそこからさらにかなりの数の階段を登ったフロアにあった。さらに最上階にはダージリンの街を一望できるラウンジがあったり、ホテル内の移動だけでもまるで登山のようだったが、そのような立体的な斜面の暮らしを体験するのは、なんとも不思議で楽しいものだった。

ダージリンの夜は意外に早く、街が眠ってしまう前に腹ごしらえをしようと、とりあえずホテル近くの営業中の食堂に飛び込んだ。メニューにはチベット料理、インド料理、中華料理がずらりと並んでいた。注文したチベット料理は素材の野菜も肉もスパイスも新鮮で味わい深く、それがこの地域の山の幸の豊かさに由来するものだろうとすぐに理解した。中華料理は、「中華風」ではなく中国本土の味だった。確かにこの先のシッキム州は実際に中国と陸続きの土地。中華もまたこの地域のローカル食に違いなかった。働いているチベット系と思われる若い女性は、表情や仕草がまるで東アジア人のそれで、終始屈託のない笑顔を振りまいていた。

日が変わり早朝のダージリンの街を散策しながら、最終目的地ガントク行き乗り合いジープの出発場所を確認した。鉄道やバスのターミナルよろしく、さまざまな街に向かう乗り合いジープが朝早くからそれぞれに出発準備を整えている風景は、旅心を大いに刺激するものだった。自由な旅の起点。ここから自分の意思でどこにでも行くことができる。ダージリン発のジープは予約が可能だったので、さっそく翌日の午前11時半に出発する車両を手配した。

出発当日、所定の車両に向かうと、車内にはすでに何人かが出発を待っていた。ガントクに帰るという家族連れや学生など、さまざまな人たち。またもやドライバーを入れて11人が、狭い車内で肩を寄せ合うことになる。彼ら、彼女らは、多くの言葉は交わさなくとも、山行きの運命を共にする旅の友なのだった。

シッキム王国の首都、ガントクにたどり着く

ダージリンからガントクまでの道路は昨日同様の険しい山道なのだが、意外に整備されていることに驚いた。道路が急峻な山肌にへばりついて登っていく、というよりも、高度地域で緩やかにアップダウンを繰り返して高度を上げる、という感じだった。それでも車窓の向こうに無限に広がる清廉で高潔とも思えるシッキム・ヒマラヤ山系の光景は、これまでに世界のどこでも見たことのないもので、ますます「遠くに来た感」が募った。ここから周囲数時間圏内には大都市も空港も大河も高速道路も、何も無い。あるのは標高3000から8000メートル級の山々だけ。それは旅人として諦めに近い覚悟が必要な過酷な環境だ。頼りにできるのはジープのドライバーの視力とハンドルさばき、そして同乗する仲間への言葉にならない信頼だけだった。

途中の西ベンガルとシッキムの州境のチェックポイントでジープは止まった。事務所から出てきた係員が車内の私を認め、外国人が乗っているなら本人が事務所に来るように、と無表情で指示を出した。一人で事務所に向かい、パスポートと入境証を見せて入州のスタンプを受けジープに戻るまでの10分ほどの間、同乗者たちは車内で何事もないように無言で待っていてくれた。緊張感はあまりなかったが、入境証を事前に取得していなかったらここでどうなったのか、ジープが何らかの理由で私を残してここを出発していたら、どうすればよかったのか、などと思いを巡らせ、少し背中が寒くなった。

その後も山道は延々と続き、休憩で止まったローカルの食堂で同乗者と紅茶を楽しむなどした後、出発から4時間半ほどでガントクの街に到着した。そこは長い山旅の最終目的地だった。

ガントクの第一印象は「想像をはるかに超えるスゴい所に来た」だった。というのもガントクの街は険しいヒマラヤ・シッキム山系の山間に開けた、多様な人々が行き交う小ぎれいな小都会で、その活気になんとも言えない豊かさを感じたからだ。失礼ながら「こんな辺境の果てのような場所に、これほど気の利いた街があるとは」と驚いたのだった。

ホテルを飛び込みで決め、荷を解き、さっそく街に出た。昨日のダージリン同様、街は急峻な山にへばりつくように広がっていた。ここでもまた、車が通れるメインの道路はうねうねと大きく左右に折り返しを繰り返して斜面の街を登っていた。そしてそれを上下にショートカットする歩行者用の階段が、やはり網の目のように張り巡らされており、それぞれの階段に沿ってたくさんの商店やレストランが並んでいた。左右に折り返すクルマ用の道路と歩行者用の急な階段のコントラストが、街全体を極めて立体的にしていた。それはこれまでに見たことのないスタイルの都市の美しさだった。

穏やかな表情の人々はあくせくしておらず落ち着いていて、余裕が感じられた。レストランに入るとメニューにはチベット料理が圧倒的に多い。そしてその味もまた絶品だった。正統のローカルフードなのだから、当然であるが、野菜、肉、スパイスなどの食材の豊富さと新鮮さに驚いた。シッキム州でしから売られていないという地ビールもあった。客には東アジア人に似た顔つきの人たちも多く、はにかんだような笑顔に親しみが湧いた。シッキム以外の地域から国内旅行で訪れているインド人が、シッキム人の店員と英語で会話をしているのが印象的だった。ここはわずか40年前まで、インドではないチベット族の独立王国(後にイギリスの保護領)だった土地である。都市としての洗練さと快適さは、いわばかつての首都の風格だろう。予想していなかった豊かな土地の情景に圧倒された。窓の外には夕刻の雨が降り出し、濡れる石畳が輝いている。シッキムビールの酔いに任せて、どうしてこんな美しい街がここにあるのか? 私は今いったいどこにいるのだ? と心の中で呟く自分だった。

ガントクの街からヒマラヤを遠望する

翌朝は快晴だ。街を縦に貫く網の目状の階段をあてどなく登ってみる。頂上である尾根には王宮や寺院があり、その先の谷に向かう反対斜面には学校があった。登校する生徒・学生たちの年齢は幼児から高校生と幅広い。皆、清潔な制服を着て、明るい表情で険しい坂道や階段を登っていた。

さらに奥にはチベット仏教の寄宿式の学校にもなっている寺院があった。5−6歳から10代後半かと思われる少年・少女たちが、えんじ色の袈裟スタイルの制服を着て、施設内の清掃やチベット仏教のお経や踊りの練習に励んでいた。私がカメラを抱えてふらふらと敷地内に入り込んでも誰も咎めることはしない。子供たちは総じて落ち着いていて、与えられた勉強や修行をもくもくとこなしている印象だった。高く広く淡い青空の下、敷地内にはチベット仏教の読経が、ときに激しいリズムを伴って低く響いていた。

寺の敷地からシッキム・ヒマラヤ山系にある、世界3位の高峰カンチェンジュンガ山(8586メートル)を遠望し、ガントクの街を見下ろした。ときおり霞のような雲に包まれる街並みと、その先に続く荘厳なヒマラヤの山々を眺めていると、目眩を覚えた。そこにこれまで世界のどこにもなかった不思議な空気の感触を感じたからだった。こんなヒマラヤを望む山間に、まるで世界から孤立しつつも完結しているような街があり、そこに暮らす人々の表情はどこまでも豊かなのである。ここが今も王国の首都のような場所であり、来訪者を拒まないだろうことを、旅人の本能が知らせたのかもしれなかった。

複雑な歴史と土地の豊かさを考える

はるか昔、ヒマラヤのチベット族が拡散してブータン王国、シッキム王国、ネパールにつながる国々を作った。シッキムだけが独立を保てなかった理由は複雑だが、現在、この地がインドと中国の地理的な接点となっていることが大きいそうだ。最終的にシッキム王国は、インドのイギリス植民地時代にイギリスの保護領となる時期を経て、1975年に国民投票でインドの州の一つになった。そんな動きの裏には、インドが中国のチベット自治区の併合を、中国がインドのシッキム王国の併合を、それぞれ認め合うことで、両国がヒマラヤ山脈の「貫通路」を確保し、地域全体の安定を図った、という考えもあるらしい。それが事実であれば、まさにここはアジアの現代史の大きな渦の一つような場所だ。それを知ると、シッキムに入る外国人に「入境証」を求める意味が少し分かった。ここはさまざまな意味で地域の緩衝地帯であり、政治的にも経済的にも外国人に深くあまり関わってもらいたくない土地なのかもしれない。不安定さの中に絶妙の安定が保たれている世界、とも言えるだろうか。

そんな歴史を知っても、シッキムとガントクの豊かさと美しさには言葉がなかった。食が豊かで、寡黙で穏やかな人々は親切で礼儀正しい、風貌も日本人かと思うような人もいる。観光地としての見所が多くあるわけではないが、斜面に建つ立体的で優雅な街並みはいくら歩き回っても飽きることはない。毎日シッキム・ヒマラヤ山系とそこに沈む太陽を拝め、雨が降れば、えも言われぬ風情と美しさが香りたち、そこからは無限の多幸感が漂ってくる。旅人が旅先にこれ以上の何を求めるというのか。そういえば、この街では到着してから一度も嫌な思いをしていなかった。よそ者の自分がこの土地の広い懐に迎え入れられているようにさえ感じ、思わず「桃源郷」という言葉が頭をよぎった。いっそこのままここに住んでしまえば良いのではないか……。少し本気でそう思ってしまった。それもまた、旅人としての本能的な直感だった。

近くに空港も高速道路も長距離鉄道も港も大河もないことを思い出し、日本がはるか遠い星にある国のように思えた。最も近いバグドグラ空港まででも、ジープを乗り継いで少なくとも10時間かかる。しかしそんな不便さや気が遠くなる感覚は、旅の体験の原型の一つだろう。そもそも旅では便利さだけを追求してもつまらないし、効率化の欲望はキリがない。どうしようもない「遠くに来た」感こそ、旅体験そのものなのだ、とさえ思ってしまった。

まるでシッキムとヒマラヤの山々に引き込まれるかのような、そんな旅の「沈没」への誘惑を振り切るのは容易ではなかったが、数日後に搭乗予定のエアインディアにフライトのeチケットを何度も眺め、なんとかこの土地を離れることへの心の準備を始めた。しかし最新の航空機やメガエアポートのターミナルが、まるで別の宇宙のもののように思えてしかたがなかった。旅を終えることへのそれほどの非現実感に、我ながら少し笑ってしまった。ガントクはそれほど魅惑的な土地として、たった数日間で私の心を惹きつけてしまっていたのだ。

帰路のバグドグラ空港まで乗り継いだぎゅうぎゅうの乗り合いジープの窓から景色を眺め、いつかシッキム州をガントクからさらに北へ山道を進んでチベットに向かうことを想像していた。そこに向かう道中で、またガントクのような街に、たどり着けるかもしれない。
ちなみに、シッキム滞在中に「入境証」の提示を求められることは一度もなかったばかりか、州を出る際にはチェックポイントさえなかった。やはり「入境証」は、歴史に根ざす一つの形式に過ぎないのだろうか。一旅人としては、それが旅を続けることの手段であるなら問題ではなく、むしろ土地のルーツを知ることのきっかけになることのようで嬉しいが。

旅をして目の当たりにするこの世界は、とても複雑でときに不安定で、どうしようもないことも多い。それでもその先の空は果てしなく広くて連続している。そして、その途中にときどき、深く引き込まれる土地があるのだろう。旅をする者は、いつかそれに出会うために見知らぬ道を歩み続けていく。


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*このコンテンツは、2017年9月に季刊 航空旅行(イカロス出版)に掲載された連載紀行 World Explorer の本文の再編集版です。記述された情報はすべて、2017年の旅行時および執筆時のものです。