旅に病(やまい)は付きものだ。
そう話すと、お前は心身が弱い、と笑われることがしばしばある。もちろん道中、健康に過ごすに越したことはない。ただ、予期せぬ事態や体調の変化はあって当然で、それを押してまで義務感で日程をこなすのは、もはや旅ではないのではないか。旅先の病床でぼんやりとそう思いを巡らせつつ、芭蕉翁のあの有名な句を脳内に響かせたことは、幾度もある。これはそんな旅のひとつ、高熱に浮かされて予定変更を余儀なくされた、2013年のキューバ縦断の旅の記憶である。
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軽薄な旅人の常として、私はこれまでの人生でスポーツに本格的にのめり込んだことや日々の肉体の鍛錬を誇ったことは、ほぼない。それでも旅における体力や耐性は、それなりに身に着けているつもりだ。言葉の通じない街のタクシードライバーと揉めて数キロメートルの道のりを荷物を担いで歩いたり、見知らぬ国の寺の宿坊でソイジョイとアミノバイタルだけで数日をしのいだり、衛生管理という概念が存在しない集落の森で安全に飲める湧き水を探し当てたりなど、少なからぬ困難を乗り越えてきている。深刻な体調不良に陥ることはあっても、旅程を変えて身体を休めることで自力回復できたことが多いのは、旅の運が味方してくれたからだろう。
2013年にキューバを再訪したのは、当時のアメリカのオバマ政権によるキューバとの国交回復交渉がきっかけだった。相互の大使館の再設置や直行の航空定期便の開設などが着々と準備されているのを知り、「これから一般アメリカ人のキューバへの渡航が解禁され、観光旅行者が大挙して押し寄せるのだろうか」と、なんともセコい想像に駆られたのだ。
私は1990年代の半ばに初めてキューバを訪れ、ラテンアメリカの魅力的な人々と文化、社会主義国であることを含めた独特な空気感、そしてアメリカに地理的にはとても近いのにアメリカ人旅行者が皆無という状況(陽気なアメリカ人は基本的に好きですけれど)などの、ユニークな世界にすっかり魅了された。それ以来、再訪の機会を探っていたのだが、2013年のニュースを見て、どうせ行くならキューバにしかない風情がまだ色濃く残るうちに、アメリカ人ツアー客の大襲来でいろいろと変わってしまう前に、とキューバ行きの決めたのだ。オバマの政策が背中を押してくれたとも言えるが、どうしようもなく俗物的な理由だったのだ。
東京からはエアカナダのトロント経由の乗り継ぎ便でハバナに向かった。当時の航空事情はというと、観光地のとしてのキューバの人気は(アメリカを除く)世界中で高まっていて、ヨーロッパ主要都市からキューバの主要都市への直行便も増えつつあった。アメリカからの直行便がほぼないことから、日本から首都ハバナなどに入るのも、カナダの主要都市やメキシコシティーを経由するルートが定番だった。
トロント到着後、同日に乗り継いだハバナ行きの直行便は、カジュアルな出で立ちのカナダ人観光客らしきグループや家族連れで満席だった。トロントとハバナには時差はなく、フライトタイムも約3時間半なので、彼らにとっては、日本人が東京から東南アジアのリゾート都市に向かうような、比較的気軽な旅のチョイスだったのだろう。
私の今回のキューバ旅のルートは、まず首都ハバナに到着し、ほぼ東西に伸びる本島の南岸に沿って陸路を高速バスで進み、シエンフエゴスやトリニダなどの街に立ち寄りながら、一週間ほどかけて最終的に首都から約800キロメートル離れた東南部の都市、サンチアゴデクーバに向かうものだった。サンチアゴデクーバは米西戦争やキューバ革命の端緒となる出来事が起きた、世界史にその名を刻む土地である。帰路の詳細は決めていなかったが、出国はハバナからエアカナダ便を予定していたので、可能ならサンチアゴデクーバからハバナまで国営クバーナ航空の国内線に乗りたいと考えていた。機材が旧ソ連製のアントノフかイリューシンかツポレフであれば、その搭乗も旅の土産話に加えられそうだった。
機内で嬌声をあげて盛り上がるカナダ人旅行者のおかげで、遠くにやって来た感や念願のキューバ再訪の気分の高まりをあまり感じることなく、機体はハバナのホセ・マルティ国際空港に到着した。地上走行する機体の窓をのぞき込むと、すでに夜の帳が降りている空港の光景は、約15年前の訪問時からあまり変わっていないように思えた。明らかな違いは駐機場にヨーロッパの航空会社の大型ジェット機が数多く目につくくらいだった。
タクシーでハバナの旧市街と新市街を結ぶ海岸沿いの大通り、マレコン通りに向かい、レトロな風情のホテルにチェックインした。部屋のバルコニーからは、海岸が見えた。時刻はまもなく深夜前なのだが、週末だからだろうか、道路沿いの数キロメートルにおよぶ堤防にたくさんのカップルや友人グループ、家族連れらが座り、にぎやかに話したり静かに夜の海を眺めたりしていた。ドリンクなどを扱う小さな物売りのスタンドも出ていた。ゆったりとした、幸福に満ちた時間がそこにあった。
翌朝、さっそくハバナの街の徘徊を始めた。空は雲一つない抜けるような快晴である。湿気はそれなりにあるが、時おり吹き抜ける早朝の海風が気持ち良い。昼間は気温が高くなるだろうか。
16世紀からの姿を今に残す旧市街、オールドハバナの石畳の裏通りや革命広場をぶらつき、へミングウェイが通ったというバー、ラ・フロリディータなどにも立ち寄った。
通りにはお約束のカラフルなアメリカ製のクラシックカーが走っていた。かつてのような(革命によりアメリカとの交易が突然に途絶えため)まるで時が止まったかのように1950、60年代のレトロなアメ車が今も現役で活躍している、という状況ではなく、クラシックな車両が観光リソースとしてきれいに保存維持されているように見えた。中には通りに展示するように駐車されているものもあって、それをヨーロッパ人の年配の旅行者が嬉しそうに撮影していたのも、いかにも観光地の光景だった。
夜にはそこかしこのバーやレストランからキューバ音楽やジャズの生セッションの音が聞こえていた。それは15年前と変わらぬ、キューバならではの熱量の高い光景だった。通りでラテンのリズムに耳と身体を傾けていると、店の奥で演奏中のプレイヤーの一人が、演奏の手を止めることなく、そんなところにいないで店に入ってこい、と手招きした。喜んで、と店内の席に落ち着き、ビールを頼んだ。生演奏を数曲楽しんだ後の良きタイミングで店を出ようとすると、先ほどのプレーヤーからそれなりの額のチップを求められた。(社会主義国の)キューバにこんなのあったかな、と思いながら、どこもヨーロパ人を中心にツーリズムが伸長するとこうなってしまうのか、と複雑な心境になった。
翌日は裏道や海岸や公園を散策しながらキューバの人たちの暮らしぶりの一端をぼんやりと見て過ごした。当然ながら空気はどこかしこもカリブの熱帯のそれである。汗が吹き出て、ついストリートの屋台やショップのアイスクリームに手が出てしまう。街の人々は服装も明るくカラフルで、はつらつとしている印象だった。こちらが声をけるととても親切にそして笑顔で相手をしてくれた。こちらが英語で話しかけても、お構いなしに早口のスペイン語で答えてくれることが心地よかった。観光産業が拡大して変わることもあるだろうが、キューバらしさというのは、このようにキューバに暮らす人たちの心持ちにあるのだろうと、旅人の心が少し温かくなった。
夕方になり、15年で変わっていることもそうでないこともあるな、などと至極当然なことを考えてホテルに向かって歩いている時に、自分の身体に異変を感じた。猛烈な頭痛がし、倦怠感に加えて、全身の筋肉に火照ったような鈍痛を感じたのだ。明らかに体調がおかしい。部屋のベッドに横たわったが、どうやら熱があるようだ。激しく喉が乾くのでミネラルウォーターを飲み、フロントでもらった氷で頭を冷やすが、激しい背中の痛みがじわじわと全身に広がっていった。
眠れぬまま、朦朧とした頭で天井を見上げると、ゆっくりと回る古ぼけたシーリングファンが、不安なほどぐらついていることに気づいた。今はあの木製のファンが天井から落ちてきても反射的に逃げるのは無理だろう。頭や顔面に激突したら致命傷になるだろうか。旅先での原因不明の高熱に加えて顔面の裂傷というのは、さすがに辛い……、などと考えていると、いつの間にか朝になった。
その日も体調は戻らない、日本から持参した非常食の携帯フードを栄養源に、ホテルの心許ない Wi-fi でインターネット接続を試み、近隣の病院などを調べるが、日本語はおろか英語での対応もしてくれるところはなさそうだった。フロントに助けを頼もうにも、英語で病状を的確に理解してもらえるとは思えかった。この局面で、ミスコミュニケーションによるさらなるトラブルは避けたかった。
とりあえず、効能などが明らかな市販の鎮痛剤や抗生物質の類を手に入れようと、ホテル近く薬局に這うように向かった。キューバは旧ソ連時代に医療体制を充実させ、製薬においても高度な技術を有している。キューバ製の医薬品は長らく中南米のスタンダード………。という旨の記事をどこかで読んだような気がする。それがあいまいな記憶と勝手な期待であったとしても、危機的な状況では一縷の望みで心の支えだった。
果たして街角の親切な薬剤師から入手した市販薬(英語の処方説明付き)はアルゼンチン製だった。キューバ製でないのが良いのかそうでないのかは分からない。アルゼンチンの製薬レベルは高いはずだ、とこれもほぼ根拠なく信じて薬を飲むと、しばらくして身体が少し楽になったような気がした。その時、例えば江戸時代に東アジアで病に倒れたヨーロッパ人が、漢方薬を処方されて快方に向かった時は、今の自分に近い気分だったのだろうか、と思った。
さらに丸一日をホテルのベッドで過ごし、体調が回復しないようなら迷わず総合病院に行く心づもりをこころづもりをしたあたりで、頭はまだ朦朧としているものの、身体はなんとか動かせるようになってきた。素人考えでいろいろ調べた結果、どうやら日本出発前の睡眠不足に加えての長時間の乗り継ぎフライト、さらには熱帯の気候の中で動き回ったせいで、熱中症のような状態になったようだった。
少し食事もできるようになったので、その先の道行きを考えた。帰路便のハバナからトロントそして東京へのフライトは日付の変更ができるものの、このまますぐにキューバから撤退するのは心残りである。旅は健康を最優先すべきことであることは理解しているものの、キューバ国内の衛生医療環境は(15年前と比べて)比較的整っているようだ。行く先々の街にもそれなりの規模とレベルの医療機関がありそうだ。そして、何よりハバナのキューバ人たちのどこか余裕のある笑顔を思い出すと、この先どこかで倒れることがあっても、おそらく最悪の事態にはならないのではないか。旅人の現場判断で、そのまま旅の駒を進めることにした。
ハバナの長距離バスターミナルに向かう。乗車する高速バス VIAZUL の向かう先は、約230キロメートル南東にあるシエンフエゴスの街である。
車内環境も高速道路も思いの外快適で、バスにゆっくりと座っている分には体調の悪さは感じず、不快でもなかった。旅を続けることにして良かった、と気分も少しづつ回復して安堵していると、いつの間にかシエンフエゴスの街に到着した。その街ではホテルを手配していなかったので、バスターミナルにたむろして到着旅客に声をかけている自称公認ガイドの一人に、ここから徒歩圏内の清潔で格安ホテルを紹介してほしいと伝えると、笑顔で一軒のホテルに案内してくれた。ここ数日でさすがに体力は落ちているようで、いつもは重さを気にしない自分の荷物を担いで歩くが、辛かった。
到着した先は、ホテルという名は冠しているものの、実際には地元のおばさんの自宅のゲストルームだった。が、そこに宿泊するのは、ローカルの人たちのゆったりとした暮らしを知る絶好の機会にもなる。おばさんは、私が病み上がりで少々体調が悪いことを告げても嫌な顔ひとつせず、食事は隣のカフェが良いよ、近いしね、と優しげな笑顔を向けてくれた。
実際、この宿ではひたすら昼寝をし、隣のカフェという名の食堂でスープ類などを摂っていると、少しずつ元気になってくるのが自分でも分かった。
シエンフエゴスではゆっくりと博物館や海岸を散策した。人口は10万人程で特に大きな観光アトラクションはないのだが、スペイン様式はもとよりフランス様式の美しい建物が並ぶ内海に面した静かな街は、どこにいてもカリブの海風が心地良い。ハバナとは違う落ち着いた賑わいが、エキゾチックだった。おいおい、この街、今の自分の療養に最適じゃないか、とさらに気分が軽くなった。
数日間のゆっくりとした時の流れが、身体の回復にとても効果的であることを実感して、昔の旅人もこうして病から回復していたのだろうか、と不思議な気分になった。翌朝、宿のおばちゃんに礼と別れを告げ、さらに東にある街、トリニダに移動した。
トリニダはキューバの古都で、丘の上に広がる歴史的な建造物や古い街並みや石畳がとても美しい街だ。国内外からの旅行者も多く、ローカルの暮らしに加えて、観光地としての賑わいもある。街を散策していると、偶然、同じ方向に歩く熟年のヨーロッパ人の旅行者に出会った。どこからきた、どこへ行くのか、という旅人にとっての最高の挨拶を交わすと、向こうはフランス人の夫婦であるという。よほど日本びいきなのだろう。私のサムライのような旅のスタイルや表情が素晴らしいなどと言うではないか。あ、私、サムライ然としているのではなくて、実はまだ微熱があって黙ってぐだぐだと歩いているだけで………、とつぶやいていると、奥さんのほうが、あらそれは大変、この薬を飲みなさい、フランスの旅の万能薬よ、と錠剤2粒とミネラルウォーターのボトルを手渡してくれた。
旅は道連れ世は情け。ありがたい、が、いったい何だろう、万能薬とは? しかし、旅先でのこのような心遣いは嬉しさを超えて、感動的だ。とりあえず薬を旅のお守りとしてキープすることにした。ありがとう、ムッシュー・エ・マダム(帰国後に調べたが、その薬はフランスで一般的な市販の鎮痛剤だった)。
石畳が続く美しい街を、まだ少しぼんやりした頭で歩き、さてその先をどうするかを考えた。今私はキューバのど真ん中にいる。このまま 当初からの目的地であるサンチアゴデクーバに向かうか、どうするか。しかしそこまでまだ500キロメートル以上の移動があった。体調はかなり回復していて、素人ながら深刻な病状ではない可能性が高い、と感じていた。完全ではないが、この先はかなり歩ることもできるだろう。しかし、仮に熱中症だったとしても、こうして3日以上すっきりしない状態が続いている不安も大きい。何か別の症状が突発することもあり得るのではないか。この先、万一悪化した場合には、それなりの病院は見つけられるかもしれないが、英語を話すドクターは簡単には見つけられない可能性も高かった。
トリニダの街で、元気に行き交う地元の学生らを横目に、半日ほどぼんやりと悩み、キューバ滞在の予定を切り上げてトロントに撤退することに決めた。万一体調が悪化した場合も、カナダのほうが適切な対応ができそうだし、そこからは日本への直航便があるからだ。その判断を行った時の自分の気持ちは自分でもあまりよく分からない。旅人の直感あるいは本能のようなものだったし、その状態で旅を続けることが、なにかとてもキューバの人たちに失礼にあたる気もしていた。キューバはいつでも待っていてくれる。予定の変更や撤退も旅である、と考えていたのかもしれない。
地図を見るとトリニダの最寄りの国際空港は、300キロメートル離れたバラデロにあった。バラデロはハバナから東におよそ150キロメートル離れた高級リゾート地であり、究極的に美しいカリブ海のビーチで有名だ。
トリニダ市内のキューバ国営の旅行会社クーバツールの小さなオフィスに飛び込んで、翌日のバラデロからトロントまでのキューバの航空会社クバーナ航空のフライトを依頼した。明るく手際の良い女性スタッフがさくさくと手配を進めてくれて、トリニダからバラデロ国際空港までの高速バスの乗り継ぎまで、事細かに笑顔で説明してくれた。プロの仕事ぶりであり、優れたホスピタリティーというのはこういうことを言うのではないかと感じ入った。澄んだ目をした若いキューバ女性に優しく航空券を手渡された時、邪念とともに、やっぱりもうちょっとキューバにステイした方が良いことがあるのではないか、と心の中でつぶやいてしまったのはここだけの話だ。
翌朝、高速バスと空港バスを乗り継いで、バラデロ国際空港に着いた。空港ではハバナへの往路と同様にカナダ人観光客グループが傍若無人に振る舞っていた。クバーナ航空の機材は、残念ながらロシアあるいは旧ソ連製ではなく最新鋭のエアバスだった。機内のフライトアテンダントは覇気がなく、異様に盛り上がるカナダ人客にうんざりした表情で、極めて質素な機内サービスを提供していた。まるで北米・中米の現実が凝縮したような、興味深い光景だった。
トロントに数泊し身辺を整え、東京行きのフライトに搭乗するころには、体調はほぼ普段どおりに戻っていた。自分はあのままサンチアゴデクーバまで行けたかもしれない。いや、でも行かない選択が正しかったと思いたい。キューバはきっとまた待っていてくれる。
成田に到着し、普段はほぼ無言で通過している検疫カウンターで、正直にキューバでの症状と経緯を伝えた。検疫官は所定の手続きをし、新宿にある国立国際医療研究センター病院で精密な検査などを行うようにと私に告げた。2日後に病院に出向くと、「トラベル外来」という診療科があり、なんだか旅人にこっそりと準備されている未知の世界を知ったようで嬉しかった。診察と検査の結果、身体には特に問題はなく、現地で想像したとおり、疲れなどから熱中症に近い状態に陥った可能性が高いと診断された。あれから8年、今も健康な日々を過ごしているので、実際に深刻な病に倒れたわけではなかったようだ。
朦朧とした時間が続いたので、文字どおり夢のような旅になったが、いろんなことをゆっくりと見聞きし、むしろ素直な心でキューバに触れることができたと思っている。
その後のアメリカとキューバの関係はというと、トランプがアメリカ大統領になったことで、オバマ以前の状態に戻ってしまい、さらにはその後のバイデン大統領でもそれを再修復するのが難しいとされた。一時は就航したアメリカとキューバの航空会社の二国間の直行便は、2019年までに段階的に運休し、続くコロナ禍によって、全廃された。
世界の空が旅人に再び開かれるに伴って、2013年に中断したこのキューバの旅を再開したい。後半戦として、やむなくギブアップしたサンチアゴクーバを目指すのだ。病に倒れたおかげで、旅を少し心残りに終えたおかげで、こうして私にはキューバを再訪する理由ができた。自分自身にもこの世界にもさまざまな困難な出来事は起きるが、それは必ずしも悪いことばかりではないのかもしれない。こうして旅はいつまでも続くのだろう。
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*このコンテンツは、2021年7月に季刊 航空旅行(イカロス出版)に掲載された連載紀行 World Explorer の本文の再編集版です。記述された情報はすべて、2013年のキューバ旅行時と2021年の執筆時のものです。